脳の病気も気の持ちよう

今日は5時台に目が覚めた。

それでなんとかウォーキングに行けた。

大抵20分で帰ってくるところを、少し大回りして30分歩いた。

6時半にもなると通勤の爆走車や爆走自転車がおり、歩くのが怖い。

やっぱり5時台に起きるのがベストだと思った。

 

帰宅して溜まっていた前日の洗い物をして、朝ご飯を準備して食べた。

毎食後体がだるくなり全ての気力が奪われるのだが、今日は控えめに食べたからかそこまでだるくならなかった。

横になることなく、ゴミをまとめて捨てに行った。

 

一度ベッドに横になるともう全部どうでもよくなり、一日を無駄にする。

ところが今日はベッドに行かず、2階のほこり掃除をしたり手帳を書いたりした。

 

10時半過ぎのバスに間に合うように支度をして、バスで駅前に向かった。

ひとりで公共交通に乗るのはすごく久しぶりな気がした。

お気に入りのつけ麺屋に行くのも久々だった。

つけ麺を食べたらすぐ帰ろうと思っていたが、バスに乗っていたらなんだか街にも出られるんじゃないかと思えてきた。

つけ麺を食べ終えてから考えようと一旦考えるのをやめたが、食べ終えても気は変わらずにいた。

街に出て体調的にどうなるか不安もあったが、このまま何もかも怖がっていたら本当に何もできないと思い、向かうことにした。

 

街に出て、結局は1時間くらいしか滞在しなかった。

人が多そうな店に行くのは避けて行動したから、思ったほどは疲れなかった。

ひとりで街に出るのも数ヶ月ぶりだった。

もう一生ひとりでは街に出られないと思ったりしていたから、よかった。

 

帰宅後も横にならずデータ入力をした。

15時くらいまでは活動していた。

上出来と言っていいのではないだろうか。

 

 

鬱は心の風邪ではなく脳の病気だと思う。

でも、その病気の状態でも「気の持ちよう」はある気がしてきた。

考えすぎず行動してみるとか、諦めの気持ちに支配されないようにするとか。

もちろんそんな風に考えられない時のほうが多いから困っているわけだが。

それでも、気の持ちようでネガティブの渦に嵌まる頻度を下げることはできるのではないか。

気の持ちようを習慣化できれば、絶望の淵から抜け出せるようになるかもしれない。

この絶望感だって、小さな諦めが積もり積もって大きくなったのだ。